■1985-3-9 亀有 キハ58 急行「ときわ」「奥久慈」。右は営団6000系
■1985-3-9 亀有 キハ58 急行「ときわ」「奥久慈」
かつては「奥久慈」も2往復あって、水戸発着の「ときわ」1往復も「奥久慈」を併結していました。つまり「奥久慈」を併結する「ときわ」に限りキハ58が使用されていたと見ることができますが、「奥久慈」は1往復が一足先に廃止されてしまい、残された「ときわ」は図らずも「電化区間しか走らないのに、延々と油を使って走る列車」になってしまいました。
もっとも「奥久慈」を併結するからといって、上野-平(=現在の「いわき」)間を軽油で走り通す列車も、現代の感覚からすればどうかと思いますが、当時はこうした電化区間しか走らない気動車列車、いわゆる“架線下DC”というものが各地でしばしば見られました。そのほとんどは交流電化区間がらみで、急行用の交流車・交直両用車が不足していたことが理由のひとつに挙げられます。(急行「赤倉」などは全区間が直流でしたが)
当時の国鉄の施策として、急行は特急に格上げするか、快速に格下げする方針が明確にアナウンスされていました。つまり急行は無くす方向にあったため、今さら急行用車輌を新造するわけにも行かず(特に交流車・交直両用車は車輌単価が高い)、運転コストだけで見れば不経済にも思えるこうした形が、何となく続いてしまったのでしょう。
急行に限らず、昭和57.11.15改正(1982年)で電化された田沢湖線は、新設された特急こそ485系電車が投入されましたが、普通列車はすべて気動車のまま存置されるなどの極端な例もありました。電車特急を走らせるためだけに電化したようなケースですね。
現在の大多数の特急運転線区で、急行が無いのに特急=特別急行があるのは言葉としては変ですし、趣味的にも面白くなく、実質値上げとも言えるかもしれません。
しかし考えてみれば、特急・急行・普通の3種の車輌を揃えるより、特急・普通の2種で済ませた方が経済的とも言えるわけで、あながち国鉄・JRの施策も間違ってないと私は思います。実際に、列車種別は急行として残った列車でも、車輌は特急車を使用するケースが近年は特に多かったのが、それを如実に物語っているのではないでしょうか。
■1985-3-9 亀有 103系1000番代と、キハ58 急行「ときわ」「奥久慈」
昭60.3.14改正に向けて [3/8]
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